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「<意味>が書き換えられる」時代に必要な視点

今の消費者は、より納得性の高い<意味>を求めると言われます。

例えば、クラウドファンディングで製作されヒットした映画「この世界の片隅に」や「カメラを止めるな!」は、単に「映画を楽しむ」だけでなく、「映画を作り、育てることに参加する」という<意味>に対して、消費者が自分の納得するお金をつかったといえます。

消費という文脈での<意味>は、「本当に○○に大切なお金をつかって良いのか」という消費者の心の裏にある不安を解消してくれる理由付けやモチベーションとなるでしょう。

少し前までその不安を解消する<意味>を伝える役割を担っていたのは、広告やメディアでした。しかし、消費者の生の言葉がいつでもどこでも発信できる今、その役割は個人の中、あるいはSNSを中心とした我々消費者間のネットワークの中に移行しつつあります。

<意味>の主導権が消費者の側にあり、デバイスの進化のおかげでより情報が手に入りやすくなったからこそ、「本当に○○に大切なお金をつかって良いのか」に対するより納得性の高い<意味>が追い求められているのかもしれません。

<意味>=記号的な差異を消費する

消費者がお金をつかう、消費することに<意味>を求めるようになったのは、もちろん今に始まったことではありません。

フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、1970年に著した「消費社会の神話と構造」の中で、大量消費社会におけるモノの価値は、そのモノ自体ではなく、モノに付与された言語的記号にあり、我々はそうした記号の差異を消費しているにすぎないと述べています。

例えば、機能としては十分な軽自動車ではなく、「カッコいい」フェラーリを購入するとき、それは自動車というモノに対してだけでなく、「フェラーリのカッコよさ」という記号的な差異を買っているということになります。

この記号的差異とは、ここでいう<意味>のことに他なりません。しかし<意味>のイニシアティブが広告やメディア、あるいは企業の側にあったボードリヤールの時代と、今の<意味>とは質が異なってきています。

イニシアティブが消費者の側にあるので、広告やメディアが固定して一方的に伝えるだけの<意味>を、消費者はそのまま消費してはくれません。

消費者が書き換えていく<意味>

今の消費者は、購入したモノやサービスの<意味>を個々人の中に落とし込んで、自分の属するネットワークの中に上げていきます。

このような<意味>のダウンロードとアップロードが、無数の消費者によって繰り返されることで<意味>がどんどん書き換えられていくのが、今の消費スタイルといえます。

例えば、タピオカの今回のブームは3度目です。2度目の2000年代のブーム時には、すでに「タピオカミルクティー」を飲んでいました。

しかし、当時は今ほどSNSが流通していなかったこともあり、いったん下火になりましたが「SNS映えする見た目」という新たな<意味>を付加したことによって、再びブームとなったといえます。

ますます、モノ自体よりも<意味>が買われる環境となっており、ボードリヤールの時代よりも<意味>(=記号)の重要度は増しているといえます。

<意味>を書き換える場の細分化

また、<意味>をアップロードする場は、「ウェーイ高校生」「エリートサラリーマン」「ゆるヤンキー」「サブカル」「富裕層」など細分化しており、<意味>の更新がそれぞれのテリトリー、お気に入りのネットワーク内で別々に繰り返されていきます。

冒頭の、映画のクラウドファンディングにお金をつかう人々は、内容に<意味>を感じたことはもちろんですが、少し穿ってみると、「サブカル」という所属するテリトリーの中で、ヒットするであろう映画に投資した自分の先見の明を誇示できる、ということにも<意味>を感じているといえるでしょう。

これからのモノやサービスの開発では、単に新しい<意味>を提供するだけでなく、「自分のテリトリーの中で消費者が書き換えやすい、どのような<意味>を与えるか」を十分に意識する必要があるように思えます。

ただし、千差万別な自分都合で<意味>を書き換えてしまう消費者たちに、共通の解を求め、それを商品に付加するのは至難の業といえるでしょう。

こうした時代に必要なのは、一般的な人々の行動を集約した最大公約数に向けられる視点ではなく、数多くの個人の新しい行動への視点であり、その行動を丁寧に読み解いていくことなのではないでしょうか。

デコムでは、膨大な個人の新しい行動を読み解き導いたインサイトを基点に、商品に与えるべき新たな<意味>がどういったものであるべきかを見出すお手伝いをしています。